朝っぱらからうるうるしてしまった。
いい歳こいて。
何がってね。
今朝ほど「(エレキ)ギターの音が聞きたいぃぃぃぃ」
と思った日はなかったね。
どうしたんだろう?
とにかく。西川弘剛さんの音でなくてもいい。
エレキギターの音が聞きたい!!
聞きたい、聞きたい、聞きたい!!!

聞きたい、なんて生やさしいものじゃ
ないかもしれない。
「刺されたい」「突き抜かれたい」ぐらい
激しい欲求。
「ナマ」じゃなきゃダメ。
CDは一時的な慰めにはなるけれどもね。
疑似性交のようなものだ。
やっぱりナマ音じゃないと。
「坂の途中」を無駄な大音量で聞いてみた。
もう。もっともっともっともっともっともっともっと
聞きたくて。
聞きたくて聞きたくて聞きたくて聞きたくて
涙してしまった。
エレキギター中毒?
エレキギター欠乏症?
こんなになったことないね。どうしちゃったんだろう?

カッコイイギターなら、なんでもいいんだけど。
でも、やっぱり西川弘剛さんの音が聞きたくて、
札幌行き、仙台行きまで、マジ考えてしまった。
ほんの少し理性が残っていたので、実現しないけど。

そして、またしても考えた。
私にとって(エレキ)ギターって、何なんだろう??
私にとって、‥‥‥って。弾けないじゃないか、自分。
あほやで、わし。
でも、考えてしまった。考え込んでしまった。

一つのキーワードが浮かんだ。
「魂の解放」なんだな、ギター、特にエレキギターは。
ものすごく「解放」された気になるんだ。
何から「解放」されるんだろう。
自分自身から。そうかもしれない。
なんか魂が自由になっていく気がする。ギター聞いてると。
飛ぶかんじ。潜るかんじ。
どういうんだろうな。
聖歌とクラシックで育ったことには感謝している。
これが嫌いなワケではない。
むしろ、好き。
でもそこから解放された気になるのかも。
「聖歌」と「クラシック」は、そのまま、自分自身の
育てられ方の歴史でもある。
そして悲しい想い出がつまった歴史。
亡くしていく歴史。捨てられない記憶。
どうしても。「あの」想い出からは逃れられない。
「あの」想い出が、どんなに私を深く傷付けているのか。
そこにシンクロする音楽が、その風景の後ろで流れていた音楽が
魂を束縛するんだ、きっと。「こうあらねばならない」というように。
人間関係において「期待される姿」になろうとする努力。
「なれない」といえない弱さ。
そうやって自分自身を失していくんだ。
それを、引き戻してくれる。(エレキ)ギターは。
なんか、そんな気がする。

エレキギターの持つ自由さに対して憧れているのかもしれない。
輪郭をはっきりさせることも、ぼやかすことも。
はじくことも、撫でることも。飛ぶことも。潜ることもできる。

弦が張ってあって、電気を通して音が出る、って。
ただそれだけなのになぁ。基本的には。
あの「自由さ」を手に入れた人に対する憧れなのかもしれない。
ギタリスト好きだってのは。
彼女に「ギターという楽器に惚れた男の人に惚れるのね」と
言われた意味が、少し分かったような気がする。


コメント

お気に入り日記の更新

テーマ別日記一覧

まだテーマがありません

この日記について

日記内を検索